はじめまして、福岡県うきは市にて
しゅうたの畑」という農園をやっています。

青木 秀太と申します。

この度は、当サイトへお越し頂きまして
ありがとうございます。

以下簡単ですが自己紹介です。

青木秀太(アオキ シュウタ)

S56年 12月11日(39歳)
福岡県うきは市在住。
梨・ブドウ農家の長男として産まれる。

子供の頃は体が小さく自分自身に自信がなく、強い人に憧れ高校生の頃よりキックボクシングを始める。センスは無かったものの10年間続けることにより目標でもあったチャンピオンとなる。(2007年)

キックボクシングだけでは食べて行ける業界ではないので福祉業界にて勤務。介護福祉士・ケアマネージャーをへて、施設管理者を務める。福祉の業界で18年間勤務し、2019年12月いっぱいで退職。その後、専業農家となる。

家族   妻・子供(長男9歳・長女6歳)
両親   父76歳・母71歳

性格     「明るくポジティブ」
好きな言葉  「ありがとう」
趣味     「よさこい」
人生理念   「好奇心ある新しい体験を積み重ねる」

 

《 農園を始めようと思ったきっかけ 》

俺になんかあったら、この木を切ってしまえ!

産まれた頃から梨とブドウに囲まれた農家の長男として生をうけました。

うきは市でも農家としては大きな農家で、両親は常に仕事の毎日。夏は特に忙しく、友達は家族で旅行や遊びに出かける中、私は毎日手伝いをさせられていました。そんな農家の我が家が正直

「大嫌い!」でした。

物心つく頃には、農家にだけはならないと思っていたものです(汗)

そんな自分は何に興味があったかというと、それは「格闘技」です。
体が小さかったこともあり、小さい頃からジャッキー・チェンやリングその物に憧れを持ち、高校生の頃たまたま近所にキックボクシングジムができたので直ぐに門を叩きました。

センスはなかったですが、1997年から始め丁度10年後の2007年にNKBという団体でチャンピオンになることがでました。(10年間続けたのが要因かな~継続は力なり?)

仕事はと言うと(キックボクシングだけでは食べていけないので)おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らしていたこともあり、老人の方達が好きだったので福祉の仕事に就きました。

福祉の仕事では、介護福祉士、ケアマネージャーと経験を積み最終的には介護施設の管理者を務めていました。(2019年12月退職)

そんな中、2018年の11月
俺になんかあったら、この木を切ってしまえ!という父親の言葉が飛び出したのです。その言葉を夫婦で聞いていました。

そもそも何でこの言葉が飛び出したかと言うと、母が入院したからです。今まで大きな病気もせず父の支えになってきた母。

そんな母が肺炎で入院してしまったのです。大事にはいたらず、2週間ほどで退院はできたものの、父もそんな姿を見るのはショックだった様子で、自分がこうなったら・・・
というのを想像してしまい出た言葉だったとようです。

農業は嫌いと言いながらも、我が家で作った野菜や果物は大好きだったので、自分は勿論、妻や子供達も喜んで食べていました。

特に子供達は
「ジジの作った野菜は美味しい!ジジの作った果物は美味しい!」
と言って毎日喜んで食べていたので、それが無くなると思うと自分の中で「本当にこれで良いのだろうか?」という気持ちが沸き出てきました。

そして、その気持ちは妻も一緒だった様子です。

そんな気持ちをお互い持ったまま、家族で佐賀に旅行に行った日のことです。

妻の両親、義理の姉夫婦も一緒だったこともあり、たまたまですが、
「リンゴ狩りに行こう!」となったのです。
正直自分は「リンゴ狩りなんてしたくないな~」と思っていました。

果物農家の長男として産まれた自分はフルーツ狩りなどに興味なく、生れてこのかた他人の農園のフルーツ狩りなどしたことありませんでした。

ですが、行ってみてビックリ!天気もよく、見晴らしの良いリンゴ園で子供達が「キャーキャー」言って楽しみ、取ったばかりのリンゴを「美味しい!」と言って食べている姿、そしてその姿を幸せそうに見ている妻を始め、義理の両親、姉夫婦。

そんな姿を客観的に見ていた私は

「・・・こういうことなんだ、親父のやっていたことは」

と感じたのです。ただ野菜や果物を育てていた訳ではない、その先のこういう姿を想像して、朝早くから寒い日も暑い日も毎日畑に向っていたのかと。

考えれば分かることかも知れないけど、愛情を込めて作った物を提供するということは「人に喜んでもらうこと」と言う事を私は気づいていませんでした。

このことを妻に話したら妻も、一緒のことを考えていたようで、
「やっぱり、家の農園(野菜や果物)が無くなるのは寂しいよね!子供達にもまだまだ食べてもらいたいよね!そして、他の沢山の人達に食べてもらいたいよね!」と気持ちは一緒でした。

このことがきっかけで、ほぼ両親の手伝いなどしてこなかった自分ですが、畑に出るようになり、植物を育て、消費者の方に提供するという楽しみや、喜びを知った私は専業農家としてやっていくことを決めました。

 

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